聖痕大戦外伝 《剣を継ぐ者》 
 "ARMAGEDDON" Another stories - "Inherit the Sword"


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 5『2.14/1059』

 そして別離の一年前
 
 王国自由都市ロイフェンブルグ。
 エステルランド神聖王国ミンネゼンガー公国、その東端に位置するプラウエンワルト・アルプスの麓に広がる巨大な城塞都市は一面の雪景色であった。
 ザール川の源流から引いてきている都市内の水路の一部は凍り、石畳で舗装されている街路には白い絨毯が敷かれている。暖を感じさせるのは、街の東側に広がる工房街と、西側の旅館街に林立する煙突から立ち昇る煙ぐらいだろうか。
 街の人々は白い靄を口許に発生させつつ、厚手の外套の襟元を押さえて足早に行き交っていた。
 その中に、随分と奇異な組み合わせの男女の姿が在る。
 
 男は、まず見間違えることのない旅人――といえば聞こえはいいが、とどのつまり定住はまず不可能だろうと思える放浪者――だ。
 身長は低くはないが、さりとて偉丈夫と形容するほどのものではない。肉付きは悪くない。頑健と表現するよりは引き締まった身体つきで、他者を威嚇するには物足りないが、俊敏さに長けた肉体だった。その身体を胸甲に包んでいる。胸甲は薄汚れ、所々補修の跡がうかがえた。その上にはさらに泥と雪にまみれたためにひどくくたびれた外套。全般的に見て、まさに放浪者としか表現できない風体だった。だが、すべての頂点にある顔だけは、それらの印象を裏切っている。恐らく若いであろうが、苦労を重ねた容貌は精悍と柔和の絶妙なバランスを保ち、時には優しげな表情も、時には悪鬼もかくやという厳しい表情を浮かべることもできるであろうことは容易に想像できた。
 そして最も印象深い目――。哲学的というには輝きがありすぎ、希望に満ちたと形容するには余りにも重い印象を与えすぎる。希望と絶望の境界にあるような、小さな熾火を想像させた。
 一方、そんな男を見詰める少女は、考えようによっては彼よりも場違いな印象を他者に与えた。
 年の頃は一〇代半ば。旧派真教の司祭を思わせる法衣に似た服の上に、雪に同化するような純白の外套を着た小柄な少女の全身からは、隠しようもない神聖な雰囲気が放たれている。表現すべき言葉がないほどの整った容貌に浮かぶのは、無条件の信頼と微かな憂い。精緻に編み込まれた亜麻色の髪は、埃一つついてはいなかった。
 男――エアハルトは、毛皮の裏打ちがある革手袋に包まれた指を屈伸させた。
「寒いなぁ」
 少女――ティアはわずかに口許を綻ばせて彼を見上げる。
「冬、ですから」
「ああ、まあ」
 エアハルトは苦笑した。ぼやきにまで応えを返してくれるとは。
 視線を、雄大というほかないプラウエンワルトの山腹、その中程に向ける。階段状に構築された城館というより要塞のような見てくれの主城が、雪化粧を施されている。
「ミリアムからの依頼とはいえ、冬の豪雪地帯に来るなんてな……」
「防人としての仕事です」
 ティアがそっと窘めるように囁いた。「夕刻までには、ロイフェンブルグ伯を訪れなければなりません」
「まだ時間はあるさ」
 エアハルトは視線を西側に向けた。旅館街に並び立つ煙突から、なんとも暖そうな湯気が立ち昇っている。「噂に名高いロイフェンブルグの温泉とやらを楽しむ時間はね」
「マスター」
 怒りとも呆れともつかない吐息をつくティア。
「まあいいじゃないか、強行軍でここまで来たんだ。ティアも身体を休めなきゃ」
 彼女の背を押すように、エアハルトは街路を進む。
 
 水路にかかる橋を幾つか越えると、ちょっとした人だかりがある建物の前に出来ていた。
「なんだい、あれ」
 エアハルトが呟く。大袈裟な尖塔の造りから、そこが正真教――旧派真教の修道院であることはわかるが、祭儀の集まりにしてはどうも雰囲気が明るすぎるような気がする。それに、人だかりを作っているのが女性ばかりというのもわからない。
「ああ、あれは……」
 教養に関しては主を遥かに凌駕するティアは、何かを思い出したように口を開き――噤んだ。「……何でしょうね」
 その微妙な間の取り方に、エアハルトは小さな違和感を覚える。背後から彼女の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「なんでもありません」
 その割には、目許がちょっと赤い気がするけどなあ……エアハルトは、しかしそれは寒さにちょっと焼けたんだろうと納得する。彼は、彼女に対し深い詮索はしないように心掛けていた。
「ま、いいや。行こう」
 そのまま、温泉旅館へ向かう。
 
 噂になるだけあって、温泉というのは実にいいものだとエアハルトは思った。せいぜい温めた水を浴びる程度の慣習しかないハイデルランドにおいて、熱い湯に漬かるということに面白味すら感じている。
 戦場で覚えた猥歌を鼻歌で唄いつつ、浴場に隣接する酒場に向かう。別の湯に入ったティアとそこで待ち合わせていたのだった。
 (ん……?)
 ティアはテーブルの一つに既に座り、席を取っておいてくれていた。しかしどこか違和感を感じる。こちらに気づいたティアが小さく手を上げ、微笑んだ。ああ、そうか。
「なんだ、早く上がっちゃったのか?」
 向いに座りつつ、エアハルトは言った。ティアには、湯上がりの空気がなかった。
「……わかりますか?」
「温かそうに見えないよ。外に出てたのかい」
「ええ……まあ」
 彼女らしからぬ、歯切れの悪い返事だ。エアハルトは、だからこそそこで追及を打ち切った。近くを通った女給に手を上げ、お茶と軽食を頼む。時間は昼食を頼むには遅すぎ、夕餉を食すには早すぎた。それに、伯爵を訪ねれば懐を痛めることなく豪勢な食事にありつける。
 
 傭兵仕込みの早食いと見かけに相応しい小食のせいか、あっという間に二人は運ばれてきた軽食を平らげた。食後の茶を飲みつつ、これから依頼される仕事についての打ち合わせを行う。
 その間、ティアはどこか落ち着かない様子だった。もちろんきちんと受け答えはしているが、何故か視線は時々泳ぐし、目許が赤い(エアハルトは、それは温泉に浸かったためだろうと独り合点している)。
 とにもかくにも打ち合わせを終えると、エアハルトは杯に残ったお茶を飲み干して席を立とうとした。
「マスター……」
 そこでようやく、ティアが口を開く。エアハルトは上げかけた腰を下ろし、彼女を見詰めた。「?」
 変だった。実にティアらしからぬ表情であった。躊躇いと恥じらいの顔を、エアハルトはほとんど見たことがない。特に、二つが混交したような複雑な顔など。
「これを……」
 ティアが懐から取り出したのは、質素な紙に包まれた何かだった。
「……なんだいこれ」
 エアハルトはそれを受け取り、珍しそうに見る。
 あの、そのと要領を得ない言葉の羅列がティアの唇からしばらく紡がれた。
 やがて、ぎゅっと小さな手が握られ、小さくも語気の強い言葉が出される。
「チョコレートです……!」
「チョコレート」
 鸚鵡返しにエアハルトは呟き、次いで、ふーんと鼻を鳴らせつつ包みを解いた。
「ああ、ほんとだ」
 中には濃茶色の塊がほんのりとした香りを漂わせている。エアハルトはそれを手に取り、そっと匂いを嗅ぐと躊躇うことなく口に放り込んだ。
 咀嚼し、にっこりと微笑みつつ「うん、おいしい」と頷く。
 ティアの顔の紅潮は、頬にまで移った。何度か口を開きかけ、何かを告げようとする。目を閉じ、深呼吸をし、そして呟くように言った。
「マスター。今日は二月一四日です」
「ああ、そうだね」
 口の中に残るほのかな甘味をお茶で流しつつ、エアハルトは頷いた。
「正真教では、今日は聖ヴァレンシュタインの聖祝日になっています」
「へえ」
「聖ヴァレンシュタインの日は、『男女が贈り物をする日』と言われています……あの、それは、教会が定めたものではなく、民間伝承のようなものなんですが」
「ほう」
「それは聖ヴァレンシュタイン――ああ、彼は列聖者で……救世母を慕っていたんですけど――は純愛の守護聖人と言われていてですね……つまり、つまり」
「うん」
「ええと……つまり、今日は、女が、男に、想いを託して、チョコレートを贈ると――何というか、仲が良くなるそうです」
「そうなんだ。………………?? !? !!」
 
 エアハルトは、ティアの蘊蓄ではなく、彼女の視線でその真意に気づいた。
 一瞬狼狽したように表情を凍らせ、そして泣き顔にも似た恐怖の表情を浮かべ、そしてそれを隠すように顔を伏せた。
 
 ティアは、照れを隠すように――そして主の表情を見ないように――顔を伏せていた。
 
 沈黙がテーブルを支配する。
 
 ……マスター。お気づきですか?
 わたしが、あなたに付き従う真の理由を。
 防人だから。もちろんそうです。
 ヴァハトだから。ええ、あなたはわたしの使い手ですもの。
 でも、それだけではありません。
 あなたは、わたしを、継いでくれたから。
 それが最大の、本当の理由。
 あなたは魂の覚醒とか、救世とか、宿命とか、そんな理由を押し付けられて――それでもなおわたしをそばに置いてくれます。
 わたしがいれば、嫌悪する過去を忘れ去れないことを理解して、なお。
 わたしは、枷でしかないのに。
 わたしは、あなたを絶望と涙と血河に誘う剣なのに。
 
 だからなのです、我が主よ。
 わたしは、剣として、あなたを襲う運命から護りたいのです。
 防人より、ヴァハトよりも誇り高き、剣を継ぐ者。
 これからもずっと、マスターでいてくださいますね……?
 
 ティア。君は本当の僕に気づきながらもなお、僕の剣であろうとするのか?
 薄汚れた傭兵で、
 君の主を殺した人殺しで、
 自分の贖罪のためだけに君を利用している男の。
 僕は防人でも、ヴァハトでもない。ただそれを演じているだけの小狡い馬鹿だ。
 なのに君は、魂の連なりとか、救世とか、防人の掟とか、そんな理由のためだけに僕のそばにいる。
 僕の自己満足のためだけに、地獄にも勝る戦場を潜らねばならないと知っていて、なお。
 僕は、重荷でしかないのに。
 僕は、君を屍山血河に引きずり込む悪魔なのに。
 
 だからなんだ、ティア。
 僕は、君を僕というくだらない存在から救いたい。
 絶対に、次なる――そして本当のヴァハトに継いでみせる。
 それこそが、本当の防人でも、ヴァハトでもない僕の、
 『剣を継ぐ者』としての決意だ。


  (完)


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