■ 設定資料:信仰審問局
【信仰審問局――我が名誉は忠誠なり】
「狂信の心臓を持ち、恐怖を纏い、名誉と忠誠だけを伴侶として、救世母の名の元に死を振り撒き、舞うように人を殺し、闇を滅する。それが審問官だ。我らの敵だ」
――ブレダ王国国教会宣教司長イルテム・クレシオン
「良き神徒は、救世母のために死ぬことを恐れない」
――第四代信仰審問局長エレル・ピア・ダムツォーク大司教
「信仰か、死か。審問官にあるのはその二つだけである」
――第三九代教皇“審問官”エレーネ・テオフィルス・モルザート
◇ 沿革
信仰審問局は、聖典庁が抱える六部局の中で最も歴史が浅い。創設は西方暦九五〇年、第三五代教皇“怜悧なる”イェカテリン・ナーゲルの勅命によって設置された。当時猖獗を極めた教会腐敗化を食い止めるために、『救世母と教皇のみに忠誠を誓った』三〇名の強制執行官による聖典庁列聖局審問部が始まりである。
聖典庁で最も祭儀的色合いの強い列聖局に設置されただけあって、当時の審問部は実に原理的・狂信的な要素の濃い宗教警察であった。この頃、同じように宗教警察として教皇
庁警衛本部に異端審問局が置かれていたが、審問部はより“身内”を対象としているだけあって、より恐怖を煽る存在であった。なにしろ「教皇の直轄」という免罪符があるために、その捜査、処罰にはまったく遠慮がなかったのだ。今も受け継がれる“黒い悪魔”という審問官に対する俗称は、この頃の活動に対して奉られたものである。
列聖局審問部は捜査に際し無制限に誓い指揮権を有しており、時には聖救世騎士団から執行部隊として軍勢を引き連れることすらできたという。ちなみに執行部隊とは官僚用語であり、実際は抵抗を示す神徒(半ば地方閥と化した修道院など)を鎮圧――虐殺するための部隊を意味する。
ともかく、彼ら――列聖局審問部は実に猛威を振るったといっていい。
資料によれば、創設された西方暦九五〇年からわずか六年の間で、二四人の司教、八人の大司教、二人の枢機卿、数多くの司祭を処刑したとある。正真教教会の歴史の中で、これほどの神徒が亡くなった事態は《第一次〜第三次北方大布教》と《聖王闘争》――つまりは戦争と内紛を除けば無い。
しかし、厳格であるべき者たちが堕落の甘美さを味わってしまえば、腐敗を止めることは実に難しい。戦争にも似た事態を平時に引き起こしてもなお、神徒の腐敗化は進んだ。
列聖局審問部は拡大していく腐敗化に対抗するため、九六〇年には信仰審問局として独立し、その人員を増加させていくことになる。
信仰審問局へと昇格した列聖局審問部はこの時、組織として変化していた。
組織の目的が変わったのだ。それまでの組織の存在意義は「背教者(戒律を曲げ腐敗をよしとする者)の摘発」であった。この背教者の範疇には新派真教徒も含まれている(本来ならば異端審問局の管轄ではあるが、対外諜報活動を専門とする伝道局との連携からエクセター王国・ブリスランド王国で活動する新派真教徒と対することが多かったためなし崩し的に信仰審問局の職掌にも含まれた)。だが、背教者の摘発を進めていくうちに遭遇することが多くなった異形なる者たち――殺戮者(ちなみに殺戮者とは俗称であり、神智学上の分類では背徳者となる)への対応をもその任務に含めるようになった。この存在目的の主従関係は殺戮者との遭遇の増加によりいとも簡単に逆転し、西方暦九八〇年頃には信仰審問局の第一義目的となった。
まさに大いなる転換であった。対殺戮者殲滅機関としての信仰審問局の誕生である(だが名目上、背教者・異端者の摘発も任務から外されてはいない)。
こうしていつの間にか教会の中で“闇”――殺戮者と向きあって戦うことを担当することになった信仰審問局は、よりその質を戦闘へと特化していくことになる。
殺戮者と戦うことができる人員を揃えねばならない。
とはいえ、その出自からして小規模であった審問局が、すぐに人員を増加させられるわけがない。では、どうすればよいのか。
長期的には、人員を自ら育成する。
短期的には、不足分をあらゆる手段を用いて充足させる。
というわけで、長期的目的に沿って教練部――《狼の巣》が設置され、短期的目的を達成するために聖救世軍からの人員供与が要請された。九六〇年からの一〇年間余、審問官として闇と対してきたのはほとんどが聖救世軍人であった。
現在に至るまで信仰審問局と聖救世軍の間に予算・資材・人員の交流関係(たとえば《狼の巣》を卒業した者が聖救世軍に配属されたりする)があるのは、この設立当初の友好関係があったためである。
なお、《狼の巣》が本格稼働することによって審問官に占める聖救世軍人比率は低下し、西方暦一〇六〇年現在では二割以下というところに収まっている。また人員定数確保という問題は、審問官に要求される身体的・精神的能力の高さ、またその任務の死傷率の高さから今もなお解決されていない。審問局に属する人々の過半が、他の組織からの出向・選抜組で編成されている。生え抜きは驚くほど少ない。
現在、信仰審問局が擁する人員は八一六名。うち審問官は九八名である。
面白いことに対殺戮者殲滅機関として組織変革が為されても(つまり腐敗神徒摘発が目的ではなくなっても)、その原理主義的傾向が変わることはなかった。より一層強固になったといっても過言ではない。
“闇”との戦いで拠り所となるのは、ただ救世母に対する忠誠だけだからである。
一世紀近い“闇”との戦いは、この狂信をより強くさせていき、ついには「信仰のためならば教皇をも殺す」と時の審問局長をして言わしめるほどになっていった。
実際、教皇によっては危険視する者もおり、中には排除を試みたとさえ言われる。しかし現在もなお信仰審問局が存在していることからわかるように、成功はしてない。また、排除を試みた教皇は志し半ばにして急逝している。この事実が、今もなお彼らを存続させる理由である。
◇ 組織
信仰審問局は聖典庁の中で最も規模が小さい部局である。だが対処すべき事態は余りにも多岐に渡り、それなりに組織も強固なものにせねばならない。現在、審問局がその麾下に収める部署は以下の通りである。
▽ 1:審問部
信仰審問局というと、黒い悪魔と俗称される審問官だけが注目される。しかし、彼らの数は審問局を構成する人員、その一割にも満たない。たった九八名である。逆に言えば、残りの七〇〇余名は審問官ではない。
特に審問部と呼ばれる部署には一人として審問官など存在しない。彼らの任務は背徳者と顔を合わせることなどないからである。
審問部には《影》と部内で呼ばれる調査官が所属している。
彼らの任務は情報分析と内偵捜査だ。収集、ではない。審問局で最も人員が配置されているといっても、その数は限られている。より大規模に情報を集めている伝道局に比べ質量ともに劣ると言わざるを得ない。ならば、収集はそれらに任せ、背徳者――“闇”に関連する情報だけを分析すれば良い。
というわけで、審問部は伝道局がその優秀な諜報網によって各地より収集した各地の情報を――さすがにそのまま受け取れるわけがない。伝道局にとり情報とは金や命にも勝る(もしかしたら救世母よりも)生命線だからである。聖典庁内部で繰り広げられる勢力争いで常に伝道局が優位にあるためには、それなりの秘密を持たねばならない。というわけで、審問部は伝道局が“背徳者に関連する”と判断した情報だけを受け取り、それを分析する。そして一定以上の容疑が固まれば、そこで初めて人員を派遣する。いわゆる内偵捜査である。
内偵捜査は特定の目標に対して専従調査班を派遣することから始まる。いわゆる密偵投入ではなく、継続的な監視作業が調査班の主な仕事だ。実に地味な仕事である。世俗の英雄譚に謡われるような戦いなどそこにはない。ただ目標を追い続け、その行動を見続ける。時には遭遇戦のように(目標に監視を気取られて)荒事になることはあるが、それはよほど手酷いミスをした時だけだ。
この内偵捜査は、平均して三カ月、最短でも一カ月程度は続けられる。完璧な証拠だけを積み上げ、“背教者”あるいは“背徳者”であることを突き止めるのが審問部の目的である。
分析・監視といった業務柄か、ここの人員は教皇庁警衛本部や伝道局、聖救世軍統帥本部からの人員が多い。
▽ 2:審判部
ここがいわゆる審問官の牙城である。
九三名の信仰審問官と五名の裁定官で編成されており、審問局で最も人員が少なく、最も畏れられているといっていい。
審問部で容疑が固まった背徳者(背教者も時に含まれる)に対する逮捕――まあ、素直に応じる者がほとんどいないため、現実的には処分――が任務だ。つまり本来は実働部隊に過ぎない。
だがハイデルランド地方全域を少数の審問官でカバーせねばならない彼らは、常に各地に散らばっており、ほとんどの場合において審問部の活動――内偵捜査――にも加わっていることが多い。つまり実情として、審問部と審判部はほぼ同体なのである。
裁定官は審問官を統括するいわば指揮官で、背徳者に対する処分を決定する裁判官でもある。審問官は常に裁定官の指揮下にあり、彼らの指示無しに対象を滅殺することはない(違反した場合、まず間違いなく背教者として処刑される)。強大な権限と力を持つ審問官の歯止めといえる存在である。
さすがに業務が業務だけに、人員の九割は《狼の巣》からの生え抜きで、ごく少数が聖救世軍からの出向、あるいは衆民からの選抜で構成される。
なお、余談ではあるがこの部署の人員損耗率は凄まじく、年に一五名前後は殺戮者との戦いで死亡している(《狼の巣》から定期的な人材供給を受けつつ、規模が拡大しない理由はこの損耗率の高さのせいである)。
▽ 3:教練部
審問官養成機関《狼の巣》を管理運営する。また、衆民からの人員選抜も担当する。
《狼の巣》は教皇領ペネレイア内に存在する修練施設で、二年間にわたり審問官候補生を教育・訓練する。その訓練は地獄と同義語であり、その訓練期間の間、少なからぬ数の修練者が死亡していると言われている(正確な数は機密)。
期数ごとに二〇名前後の審問官を卒業させており、その大半を審判部――あるいは聖救世軍に配属させている。
専任の事務官のほかは、聖救世軍からの出向教官か日数を区切って赴任する審問官が教練官として訓練を担当する。
▽ 4:資料部
背徳・背教者の調査資料の保管を担当する。また、審問官に関する人務資料の作成・管理も含まれる。また、内偵捜査に赴く調査官の、偽造資料作成も業務の一つである。
神聖機密に覆われた審問官、調査官のすべてがここにあるが、非常に厳重な管理態勢がしかれており、いまだかつて情報を漏洩させたことはない――といわれている。
書類仕事が多いためか、総務局からの出向人員が実に多い。
▽ 5:装備部
対殺戮者戦闘のための武装・防具の研究開発が主な任務。預言局との人員交流が盛んで、時に奇抜な武器を造ってしまうことで有名。
*このほかに局長官房と総務部が存在するが、これらはいわゆる官僚機構としての部署のため、
説明を割愛する。
実に他局からの出向人員が多いことがわかる。しかし、審問局自身の権勢は小さくはない。数少ない生え抜き――審問官の存在があるからである。出向者たちは、その母体を利するための行動が取りたくても取れないのだ。なぜか。それが判明すれば、間違いなく反撃――審問官派遣による処罰が執り行われるからである。
つまり信仰審問局の命とは、一〇〇名に満たない黒い悪魔たちによって維持されているのである。